散歩好き

井の頭公園で犬とまったり。

燃ゆる女の肖像

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TOHOシネマズ府中で「燃ゆる女の肖像」を見てきました。おシャンティーなヨーロッパ系の映画久しぶりです。

 

この映画、何処を切り取ってもフェルメールの絵みたいに美しいの。

gaga.ne.jp

 
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そしてBGMが無くシーンとしてる。靴音、衣ずれ、波の音、吐息…変にドラマチックな気分を盛り上げられない分、登場人物に共鳴しやすいのです。

結婚のため修道院から出てきたエロイーズ。今まで家から出ることも禁じられていましたが、お目付役兼肖像画家として呼ばれたマリアンヌが来たので、一緒に外に出られることになります。

暗いキッチンで待つエロイーズは暗い色のフードを被り顔も見せず静かに座っていましたが、マリアンヌが来たと見ると弾かれたように飛び出していく。玄関ホール、ポーチ、どんどんどんどん走って徐々に明るくなる風景、脱ぎ捨てたフードから出た明るい色の髪。マリアンヌと会ったことで変わっていく彼女の人生の暗喩でしょうか。

当然のことですが肖像画というのはただ対象の顔を描けばいいというものではありませんね。ウィーン美術史美術館で初めてベラスケスの描いたマルガリータ王女の肖像を見た時、肖像画にはストーリーがあることを知りました。彼女の高貴でありながら幸薄そうな表情。ベラスケスは画家であり預言者ではありませんが、彼女がお産で若くして亡くなるという悲しい予兆を感じたのか…ハプスブルク家に嫁いだ後、短い間ですが案外年上の夫と仲良くくらしたという事実がまた涙を誘います。

また彼が描いた教皇インノケンティウス10世。うわー、こりゃ聖職者の雰囲気じゃないよね、老獪な政治家だよね、とシロートの私でも感じられる絵を教皇自身が受け取った時、どんな気分だったのだろうか、とか。

マリアンヌが初めに描いた絵はただ顔を描いただけのものでした。絵でも写真でも、描いただけ、撮っただけなら誰でもできる。そこに描き手、撮り手のこう表現したいという確固たる意思がなければならないのです。彼女らがそこに行き着く際に惹かれあい愛し合ったのは今まで誰も自分のことを理解しようとしなかったこともあり極々自然な成り行きですが、そのおかげでマリアンヌの絵は芸術へと昇華します。

…なのですが、個人の好みもありますが私はこのエロイーズの絵がちっともいいと思わなかった。芸術に昇華したとも思わないし、魅力がないのです。古典技法を用いて描かれた絵なのだそうですが、なんかぺらっとしていて古典に見えないし…ベラスケスと比べるなんてそんな酷なことはしないけれど、これは致命的なのではないかと。どうしてこの画家の絵を選んだのかわからないけれど、変にフェミニンな絵ではなくてよかったとは思います。

そして最後に音楽が流れます。ビバルディの「四季」より「夏」。拙い手つきでマリアンヌが爪弾いた、初めて聴いた讃美歌以外の思い出の曲。エンディングでオーケストラが奏でるそれは楽しい思い出を蘇らせ、エロイーズの胸を締め付けます。首を少し、目を少しだけ動かせばそこにマリアンヌがいる。でも私は見ない。必死でその欲望に堪える。見てしまったらもう私は止められない、この燃える思いを。見てはいけない。もう私たちは戻れないのだ、あの楽しく愛に満ちた日々に。

お祭りのシーンの音楽もすばらしかった。コスチュームプレイではなく、なんだか異次元の話を見ているような気分になりました。たぶん、私はこの映画のことをおりにつけて思い出すでしょう。浜辺で月を見た時、激しい波を見た時、女性差別問題が話題に登るとき、ラテン語のコーラスを聴いた時…舞台は昔でも私が生きていく時間軸上に、この映画はあるのです。