友人の強い強い勧めで観ようと思っていたものの、原作者の村上春樹氏から脱落して久しいし、年末年始の忙しさにとりまぎれてすっかり忘れており、慌ててネット予約しようと思ったら年末からトラブルが続いているようで、現金で窓口でチケットを買わねばならないようです。
もう2日ほどでここでの上映も終わってしまうし、友人に「観てない」と言う勇気もないので渋々劇場窓口へ。すると
…なにこの人混みは⁉️なんか事件でもあったの⁉️
困惑しつつ後日のチケットを買い、買い物をして帰宅しYahoo!ニュースを見て知るゴールデングローブ賞外国語映画賞受賞…私ってなんてマヌケなんでしょう…
ということで満席のシアターで鑑賞。アップリンクで満席なの初めてです。いいことだ。
劇中劇のチェーホフの演出は、セリフを日本語、韓国語、北京語、手話と不統一にすることにより、他者との相互理解の難しさを具体的に表しているのだろうか。なかなかに他者とわかりあうのは困難そうで、そこに能動的な努力は必須だ。
登場人物の夫、ドライバー、若手俳優とそれぞれに苦しみながら生きているが、苦しみを持って生きることで相手の苦しみを理解し、同時に自らの生を見つめ直し全うすることになる。
ここで私はチェーホフの「ワーニャ伯父さん」とのリンクと同時に、芥川龍之介の「六の宮の姫君」を思い出していた。姫は能動的に生きようとはせず、ひたすら流されるように生き、自分の死に対しても何処か人ごとのようであった。
亡き美しき妻は、夫と身体を重ねつつ物語を紡いでいたが(器用な人だ)、夫が知らぬ物語の続きを俳優が知っているということはつまり、俳優と妻との不貞があったということ。
そこで関係を知りながらも夫は俳優を責めようともしないし、そもそも妻の不貞の現場に出くわしても何もアクションを起こさない夫の愛情を妻は疑い、ますます行動をエスカレートさせていかなかったか。
人にはそれぞれ大小はあれど苦しみとともに生きている。それが人間の生だ。妻に対する後悔、母に対する罪悪感、殺人を犯してしまった罪。それでも人生は続く、生きていかねばならないのだ。
そこに希望をなんとか見出すことができるだろうか❓六の宮の姫君のようにただ流されていては見出すことは難しいだろうが、ソーニャのように神の前に誠実に生きることを目指せば、長い時間がかかってもそこに希望はあるだろうか。
いい映画でしたがただひとつだけすごく気になって仕方ないのですが、
スノータイヤは履いていたのでしょうか。
すごく気になる。