アップリンク吉祥寺で「サンドラの小さな家」を観てきました。隣(と言っても座席は飛び石方式なんですが)のおじさまがすっごく安らかな寝息をたてていらして、周囲のお客様たちが落ち着かなくなってしまったのが印象的でした。ここのシアター、椅子がいいからねえ。
DVから逃げた妻サンドラが家族で暮らす小さい家を自分の力で建てる話で、こういうテーマはいくらでもある話のひとつですが、クライマックスシーンで大きな衝撃を受けました。
この工務店のおっちゃん、ホームセンターであっただけで親切にも家の棟梁をやってくれます。土地も、「昔ヘルパーをしていたサンドラのお母さんに支えて貰ったから」と雇い主がポイと提供してくれます。そんなに親密でもないバイト先のパブの従業員仲間が貴重な週末にこぞって手伝いに来てくれたり、まるで天国のようなお話だし、建設途中娘に怪我をさせてしまい、それを理由に別居中のDV夫に子供の養育権を取られそうになるところは「クレーマー・クレーマー」みたいでなんとなく既視感。
しかしそういう場面や設定はあくまで家を前面に押し出すまでの小道具なので、重箱をつつくような無粋なことはいたしますまい(さんざんつついとるやん)。
原題は「herself」。要するに「家」は彼女自身の分身なのです。
彼女は、面倒くさく思われずに、辛抱強く相手して欲しかった(家を建てる寸前までの許認可などの描写)。
彼女は、多くの人の助けを必要としていた(建築中の手助けや、プロの助言)。
彼女は、好意によるプレゼント、それがどんなにささやかなものでもいいので欲しかった(サプライズのキッチン設備や手作りテーブル)。
彼女は、自分自身を子供を失ったら無価値だと感じていた(親権を失いかけた時のセリフ)。
彼女は、心のつながりを欲していた(完成パーティでの心温まる親交)。
彼女は、自分自身を価値あるものと認めてほしかった(棟梁のお祝いの言葉)。
それら欲しいものをを全部手に入れたその時、彼女は更なる不幸に叩きのめされ、その全てを失ってしまいますが、それは夫のDVにより生活の全てを失った時の追体験です。
「自分自身」を喪失した後、彼女はどうなってしまうのか…それはラストシーンを見て欲しい。不死鳥は自ら火の中に飛び込み、灰の中から復活します。死を賭するほどの苦しみの中から這い出た人は、不死鳥同様、すばらしい人生を謳歌するべき美しい人だと私は信じています。